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2007年11月

2007年11月17日 (土)

ELBEのワイングラスでボジョレ・ヌーボー

48780_2 紅葉の時期、例年ならどこかに撮影旅行に行くのだが、今年はそんな体力もない。無理して出かけても、手術の後遺症で神経性の下痢症状があるこの体 だ。紙おむつを用意し、トイレの心配をしながらの紅葉撮影では興ざめだ。来年の紅葉も見ることができるはずだし、<それまで生きてやるぞ>と、テレビの旅 番組の紅葉で辛抱・辛抱。

ボジョレ・ヌーボーの季節でもある。ワイン好きの長男が「夏に予約しておいた」というヌーボーを、これまた夏に、入院・手術への「お見舞い」にといただいたELBEのワイングラスで飲んだ。

「エルベ」はもちろんエルベ川からとった名でしょう。エルベクリスタルは、豊かな森林資源と水をもとに、ドイツ東部、チェコ(ボヘミア)、スロヴァキア、ハンガリーなどの東ヨーロッパ地方で中世の昔から作り続けられている伝統的なガラス工芸品です。

エルベ川の支流のひとつに「モルダウ川」があります。私の大好きな曲、スメタナの連作交響詩「我が祖国」の第2曲目が「モルダウ」です。食後も一人 書斎で、バーツラフ・ノイマン指揮=チェコフィルハーモニー管弦楽団の「我が祖国」を流しながら、エルベのワイングラスでもう一杯となりました。

いいグラスで飲むと、ワインも一味違った気がするから不思議。退院後初めてのワインだ。

頑張っている命に、『乾杯』

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2007年11月13日 (火)

4クール目の抗がん剤

今日から抗がん剤・ジェムザールの投与も4クール目に入りました。6クールの予定ですから、半分が終わった勘定です。しかし、投与できない日が結構あったから、合計では8回くらいの投与でしょうか。

副作用で吐き気が続いています。投与するたびごとに副作用が強くなるような気がするし、頭髪も抜けるようになってきました。先生の話では「10人に一人くらいは、ジェムザールの副作用で髪の毛が抜ける場合がある」とのこと。

既にれっきとした禿げ頭になっているのだから、頭髪が抜けても気にはならないが、吐き気がつらい。気力で乗り切るしかないか。

2007年11月12日 (月)

五輪真弓コンサート

Welcome

五輪真弓が12年ぶりのアルバム「Welcome」を先月発売しました。それを記念してのコンサートに妻と二人で。

有楽町国際フォーラムの中庭は、木々ももう紅葉し始めていて秋の気配。デビュー35周年のコンサートは「Welcome」のCDに収められた曲を中心に、「リバイバル」「煙草のけむり」など懐かしい曲もあり、前から二列目の席でたっぷりと堪能しました。

結婚を境にして曲の雰囲気ががらりと変わった彼女の歌は、私としては結婚前の曲に愛着がありますね。でも最近の曲では「思いで探し」など以前の雰囲気の曲もまたあります。

彼女のサイン付きでこのCDを買いました。

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2007年11月 8日 (木)

退院後初めてのCT検査

退院後初めてのCT検査を受け、今日は先生の診察でした。

肝臓への転移も見られません。手術部位は影響も残っているので、CT画像からは以上があるかどうかは判断はできませんが、今回のCT画像と、これから撮る画像のパターンを比較して、見ていくことになります、とのこと。まずは一安心。

腫瘍マーカーの値も異常は見られないということでした。

退院後初めてのCT検査を受け、今日は先生の診察でした。

肝臓への転移も見られません。手術部位は影響も残っているので、CT画像からは以上があるかどうかは判断はできませんが、今回のCT画像と、これから撮る画像のパターンを比較して、見ていくことになります、とのこと。まずは一安心。

腫瘍マーカーの値も異常は見られないということでした。

2007年11月 3日 (土)

キムタクの『目』と憲法

岩波新書の「文章のみがき方」-辰濃和男 が売れているそうだ。同じ著者の「文章の書き方」の続編になる。 こうした類の本で、私が一番参考になったのが、本田勝一の「日本語の作文技術」であるが、こちらは句読点の扱い方などタイトルどおりに「技術」に関する内容である。これはこれで文章を書くときに結構参考になったものだ。

「文章のみがき方」に、「6 異質なものを結びつける」という章がある。俵万智の「サラダ記念日」から、 「『嫁さんになれよ』だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの」を引き合いにして、求婚とカンチューハイという異質なものを結びつけることで、「愛の告白」という重いテーマを軽やかなものに変える面白さがそこにあるというのだ。

さらに、もうひとつ異質なものを結びつけた好例として、2006年5月2日の朝日新聞文化欄に掲載された憲法学者・田村理の論評を上げている。「憲法」という硬いものと「キムタク=木村拓哉」を結びつけることで、文章の内容がかえって深く理解されるようになっている。

「キムタクの『目』と憲法」と題した論評は、再開されたテレビドラマ「HERO」の中で、警察は女性ニュースキャスター暴行事件の被疑者を、犯人は 別人だと知りながら追い詰めて自殺させる。納得できない久利生検事は、キャスターから犯人は別人だとの証言をとり、刑事に詰め寄る。そして言う。 「俺達みたいな仕事ってな、人の命を奪おうと思ったら簡単に奪えんだよ。あんたら警察も、俺ら検察も、そしてマスコミも、これっぽちの保身の気持ちでな、 ちょっと気を緩めただけで人を簡単に殺せんだよ。俺らはそういうことを忘れちゃいけないんじゃないすか!」。

田村理はこの論評の中でさらに、「確かに『HERO』は『ドラマ』にすぎないが、公権力の現実を絵に描いたように突いてい る。意に反する自白、被害者が『犯人は別人』だと告げても警察のメンツで歪む事実、いつのまにか無くなる物証……。これらが実際に『よくある話』だとしたら?」と続ける。

その「よくある話」が今、高知県で起こっている。スクールバスと白バイの交通事故で、スクールバスの運転手が二審判決でも有罪とされた事件である。

テレビでも「高知白バイ死亡事故 証拠捏造疑惑が浮上」などと報道されたが、ネット上ではだいぶ以前から「キッコのブログ」などで騒がれていた。詳しい事件の内容は「キッコのブログ」や「世に倦む日々」をみてほしいが、冤罪事件の疑いが大いにあると思う。

「キムタクの『目』と憲法」の論評で田村は、「憲法は公権力にしてもらっては困ることを定める法である。だが僕達はそのことをうまく理解できな い。」とし、私たちは憲法の「権利」=国がしてくれるべきことだけに目が行きがちであるが、「公権力の不正を絶対に許さぬ「目」、「けっしてこぼさぬ涙を たたえた強い怒りの目」を支配される側にいる僕達の中に育てなければならない。」 そのためにも、「HERO」を見て「公権力の怖さ」の具体的なイメージを少しでも感じとることができたら、そこに憲法の存在意義がある。」と書く。

今日11月3日は61年前に日本国憲法が公布された日である。公権力の不正を絶対に許さぬ「目」で、私も「「高知白バイ死亡事故」のその後を注視している。


当日の朝日新聞の論評全文を載せておく。

「キムタクの『目』と憲法」

2006/5/2朝日夕刊  田村理(憲法学者)

「キムタク好きですか? 『HERO』見ましたか?」。必ず憲法の講義で問いかける。この夏、復活するというこのドラマのヒーローは、僕の講義では「権力を持つ者はすべてそれを濫用する傾向がある」と喝破したモンテスキューより重要である。

第10 話(田辺満脚本)。木村拓哉さん演じる検事久利生公平は、女性ニュースキャスターへの暴行を警察で自白した被疑者を証拠不十分で不起訴にする。しかし再び 彼女が襲われる。被害者も刑事も犯人は別人だと気づきながら、被疑者を追いつめ、自殺させる。納得できない久利生検事は、キャスターから犯人は別人だとの 証言をとり、刑事に詰め寄る。そして言う。「俺達みたいな仕事ってな、人の命を奪おうと思ったら簡単に奪えんだよ。あんたら警察も、俺ら検察も、そしてマ スコミも、これっぽちの保身の気持ちでな、ちょっと気を緩めただけで人を簡単に殺せんだよ。俺らはそういうことを忘れちゃいけないんじゃないすか!」。

けっしてこぼさぬ涙をたたえた木村さんの強い怒りの「目」は立憲主義の象徴である。「簡単に人を殺せる」ほどの力=公権力に制限を課して濫用を防ぎ、国民の人権をまもる、その手段として憲法を定める。そういう考え方を立憲主義という。憲法の存在意義である。

日本国憲法も①法の定める適正な手続きによらなければ刑罰を科してはならない(31 条)②拷問・脅迫等による自白は証拠とできない(38 条2 項)③自白を補強する証拠が無い場合は有罪にできない(同3 項)等の定めをおき、刑事手続きにかかわる公権力に制限を課している。学校で習う憲法の基本原理もすべて立憲主義とつながっている。公権力を少数者が勝手 に行使しないようにみんなで物事を決める「国民主権」。公権力がしてはいけないこと(=人権)のリストを掲げて違憲審査制で保障する。「基本的人権の尊 重」。そして、国家のために公権力が国民の命を犠牲にしてはならないと命じる「平和主義」。

憲法は公権力にしてもらっては困ることを定める法である。だが僕達はそのことをうまく理解できない。多くの人にとって憲法は、生存権保障のように国 =公権力がしてくれることを定めた法である。国は人権を与えてくれ、僕達を護(まも)ってくれる頼もしい「正義の味方」だと感じているのである。憲法の価 値を護ろうとするなら、条文を「改めない」ことよりも、僕達のこの権力観を「改める」ことが必要である。

思い出そう。2003 年12 月14 日のサダム・フセインの髭面を。国民には「聖戦への参加は義務である」と命じながら、穴蔵に隠れていた権力者の姿を。「撃つな、私は共和国大統領だと保身した大統領閣下のあの「うつろな目」は国民を護ってくれる人の「目」だろうか?

日本の警察はどうか。確かに「HERO」は「ドラマ」にすぎないが、公権力の現実を絵に描いたように突いている。意に反する自白、被害者が「犯人は別人」だと告げても警察のメンツで歪む事実、いつのまにか無くなる物証……。これらが実際に「よくある話」だとしたら?

それでも公権力が「正義の味方」であり続けるなら、僕達の無防備な信頼が「簡単に人を殺す」ことを正当化し、憲法を改正しようがしまいが、立憲主義は無に帰すだろう。

「誰でもみんな最初はそう思ってたんだ。でもな、現実はそうはいかないんだよ。そんなのただの理想だよ」久利生検事に反論する矢口刑事に僕は共感す る。理想に燃えて公権力に携わる人も、皆がいつも憲法尊重擁護義務(99条)を果たせるほど「強く」いられるわけではない。モンテスキューの言によれば久 利生公平その人でさえ。英雄に頼ってはいられない。 だから、公権力の不正を絶対に許さぬ「目」、「けっしてこぼさぬ涙をたたえた強い怒りの目」を支配される側にいる僕達の中に育てなければならない。

そのためにまずするべきことは、「公権力の怖さ」の具体的なイメージを感じとることである。だから憲法記念日には、難しい議論はひとまずわきにおい て、「HERO」を見よう。キムタクのあの「目」に共感できたら、「あの被疑者みたいにボーッとしてるとヤバいかも」と少しでも感じることができたら、そ こに憲法の存在意義がある。

たむら・おさむ専修大助教授65 年生まれ。一橋大大学院博士後期課程修了。著書に「フランス革命と財産権」「投票方法と個人主義」(いずれも創文社)など。

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2007年11月 2日 (金)

彼岸花と道元の死生観

461e7 先月のことだが、伊豆の修善寺で上の写真のような彼岸花を見つけた。新井旅館から桂川沿いの遊歩道を歩き、竹林の小径を歩いてちょうど半分くらい来 ると、和風ギャラリー「しゅぜんじ回廊」がある。このギャラリーの庭にある大樹の股に、風の悪戯で種が飛んできたのだろう、盛りを少し過ぎた彼岸花が咲い ていた。

命の短い彼岸花が、樹齢百年以上かと思われる樹に抱かれていた。彼岸花の命は短くて、それを抱いている大樹の命は長いと感じるのが世間一般の感じ方であろう。私もそうだった。道元はそうではない。

6月に手術で入院したとき、この機会に道元の「正法眼蔵」を読んでみようと石井恭二の「正法眼蔵」五巻本を買ってみたが、入院中は本を開いてもさっぱり頭に残らなかった。ここにきてまた性懲りもなくボツボツ読み進めている。

道元の時間観念・生死観には驚く。いや、なかなかすんなりとは納得できないのだが、いままでの自分の生死観がひっくり返されてしまう。

例えば「現成公案」には、

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さき ありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごと く、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。

このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、 法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春 の夏となるといはぬなり。

生と死に因果関係などはない。前後の関係もない。生は生で独立であり、死は死で独立である。冬が春になるといわないのと同じで、生が死になるとはいわないのである。

「時間」についてもすごいことを言う。時間とは存在である、というのだ。「有事」の項には、

しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解会(げえ)すべからず。飛去は時の能とのみは学すべからず。時もし飛去に一任せば間隙ありぬべ し。

有時の道を経聞(きょうもん)せざるは、過ぎぬるとのみ学するによりてなり。要をとりていはば、尽界(じんかい)にあらゆる尽有は、つらなりながら時 々(じじ)なり。有時なるによりて吾有時(ごゆうじ)なり。

とある。「時」は行過ぎるものでもやってくるものでもない。松も竹も人間も、己の体内にある「時間」をただごろごろと転がしながら、「今ここに」生きること、それしかないではないか、と私は一応理解したが、こんな壮大な哲学があったものだと。

生も死も、全宇宙の全現成としてそこに働いている姿である。彼岸花には彼岸花の時間があり、生があり死がある。それは彼岸花に備わっている時間であるから、大樹の時間と比較して長いとか短いということは意味のないことだ、と言っているのだ。

生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさき ありのちあり。かるがゆゑに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ、滅もひとときのく らゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。

生というときには、 生よりほかにものなく滅というときは、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらば、 ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとうことなかれ、ねがふことな かれ。

生のときはただ生きよ。全力で生に仕えよ。余計なことは考えるな。死のときは、全力で死に仕えよ。生は生の全機現、死は死の全機現であるからしてそのまま受け入れよ、というのである。死を嫌悪するな。嫌うなと断言するのである。

そして加島祥造は「求めない」の詩文集の冒頭に、

あらゆる生物は求めている。
命全体で求めている。
一茎の草でもね。でも
花を咲かせたあとは静かに
次の変化を待つ。
そんな草花を少しは見習いたいと、
そう思うのです。

と書く。そう、命を、生を全力で生きている。ただそれだけのことなのです。次の変化(死)を待つ。ただ、それが来るのを静かに待つ。私もそんな草花を少しは見習いたい。 

どうやら「正法眼蔵」に心が捕まりそうです。

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