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2013年10月11日 (金)

道元の「生死」観:『正法眼蔵』がおもしろい(2)

道元を逆輸入する ネルケ無方氏がこの「現成公案」を一度英語にしてから現代語訳した本が出版されている。『道元を逆輸入する』。なるほど、英語訳するためには道元の言わんとするところをしっかりと掴んでいなければできない。そして英訳から現代語訳に直すことで、曖昧だったところが明確になる。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといえども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。

You should know that firewood is just this thing called firewood, with its own "before" and "after". There is a "before" and "after" but "before" and "after" are separate. Ash is just this thing called ash, with its own "after" and "before".

<よく知りなさい。薪は、ただ薪と呼ばれるそのものだ。そのものには、そのものの《前》と《後》がついている。《前》があリ《後》があるが、その《前》と《後》は切リ離されている。灰も、ただ灰と呼ばれるそのもの。そのものには、《前》と《後》がついている>

「法位」を"just this thing"と訳しています。「ちょうど、このこと」とフリーな訳です。これを理解するためには、私たちの時間観、時間は過去から、現在、未来に一直線に連続して進むという考えを見直さねばなりません。そんなことはないだろう、と思うかもしれませんが、一般相対性理論でも、大きな重力のあるところでは時間はゆっくりと進むことが明らかになっているのです。もちろん道元が相対性理論を知っているはずはありません。薪には前も後もあるが、それは私たちの脳が「連続している」と感じているだけであり、実際には、いまこの一瞬、時間が止まってそのものがただ独立しているというのです。

かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。

Just as that firewood, after it has become ash, shall not return to being firewood, you shall not be born again after you die.

<薪は、灰になった後、再び灰に戻らないと同じように、あなたも死んだ後、再び生まれることはない>

これは当たり前のことです。しかし、次の一節はなかなか腑に落ちない。

しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆえに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆえに不滅といふ。

If you awaken to the state of things you do not say that "life becomes death". You say,"Unborn". When you awaken to the activity that spins around things,you realize that death does not become life. You say, rather "Imperishable".

<あなたが事々のありように目覚めているなら、「生は死になる」などと言わない。「生まれていない」と言う。あなたが事々を回転させるその働きに目覚めたとき、死は生にならないと気づく。むしろ、「消滅しえない」と言う>

生は生の法位にあり、死は死の法位にあって独立し断絶しているのだから、時間の前後関係はない。だから生が死になるのではなく、死の状態は「まだ生まれていない」状態である。ロウソクが燃えながら徐々に消えていくとき、そこには「生」と「死」が同時に存在している。だから「死は生にならない」とはいえ、「生」は「死」とともにあるのだから「消滅しえない」のである。

生は来(らい)にあらず、生は去(こ)にあらず。生は現(げん)にあらず、生は成(じょう)にあらざるなり。しかあれども、生は全機現なり、死は全機現なり。しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。(「正法眼蔵」「全機」)

Life does not come, life does not go. Life is not complete, nor will it be completed. Still, life is a manifestation of the whole dynamism, and death is a manifestation of the whole dynamism. You should know that among the uncountable features of yourself, there is life, and there is death.

<命が来るわけでも、去るわけでもない。完成されたわけでも、これから完成されるわけでもない。それでも、命は全体の働きの現れであり、死もその全体の働きの現れだ。よく知りなさい、あなたを構成している数えられない要素の中には、生もあれば死もある>

ネルケ無方氏は「全機現」を「manifestation of the whole dynamism」と訳して、さらに「全体の働きの現れ」と日本語にしている。

私はこれを次のように解釈してみた。

主役はダーク 宇宙の究極の謎に迫る 「全機」とは、私たちのこの宇宙全体の、ダイナミックな働きであり、老子の「タオ」だと言っても良いだろう。須藤靖氏の『主役はダーク 宇宙の究極の謎に迫る』によれば、この宇宙に存在している物質(エネルギーも物質の一種 E=mc2)の22%はダークマター(暗黒物質)であり、74%はダークエネルギーであるという。私たちが通常”物質”と呼んでいるものは、わずか4%に過ぎません。(余談ですが、著者の須藤靖(すとう・やすし)さんは、私と同郷、高知県安芸市出身の物理学者です。高知では「すどう」ではなく「すとう」と、尻上がりに発音するのです)

私たちの知っているのは、この宇宙のたった4%だけ! この4%の中で超新星が爆発して、重い元素が宇宙にばらまかれ、それが次第に集まって銀河系、太陽系、地球ができたのです。我々の身体もその元素でできているわけですから、「全機現」=「宇宙のダイナミックな働き」の結果として、この「命」が今在るのです。つかの間、宇宙から借りているこの体だから、いずれは元の持ち主に返さなければなりません。それが「死」ということです。

つまり、ダイナミックな「運動」の一過程として、この命は終焉を迎えるのです。「死」も「生」も大きな働きの「現れ」なのです。さらに残りの96%とも何らかのつながりがあるはずです。ダークマター・ダークエネルギーがなければこの宇宙は永遠に膨張を続けてしまいます。これらがなければ4%の物質も存在し得ないのです。私たちの身体も命も複雑系であり「全機現」なのです。細胞が毎日死んで、新しく生まれているように、この私のなかに宇宙があり、「生もあり死もある」のです。

『正法眼蔵』の最後のほうにある「生死」の章には、道元が再び生死について、結局これを言いたいのだという結論が書かれています。

生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、仏法の中には、生すなはち不生といふ。
滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、減すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばたゞこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。この生死はすなはち仏の御いのちなり。 (「正法眼蔵」「生死」)

When you think that life tums into death, you are fooling yourself. Living is the state of one moment, it  has a "before" and an "after". Therefore, when you awaken to the way things are, you will say that "living is unborn". In the same way perishing is the state of one moment, it also has a "before" and an "after". Therefore, perishing is imperishable.
When you say "living", there is nothing but living. When you say  "perishing", there is nothing but this perishing. When you live, just live for the purpose of living, and when you perish, just perish for the purpose of perishing. Do not lament about it, and do not cling to it. This life and death is exactly the life and death of a Buddha.

<もしあなたが、生が死に代わると考えたならば、それは間違いだ。生は一瞬のありようであり、それには《先》もあれば《後》もある。だから、ものごとのありのままの姿に目覚めれば、あなたは「生は誕生しな
い」というだろう。同じように、滅も一瞬のありようであり、それにはやはり《先》もあれば《後》もある。
だから、滅は不滅だ。あなたが《生》といえば、その生以外には何も存在しない。あなたが《滅》といえば、その滅以外には何も存在しない。生きるときは、ただ生きるために生きろ。滅びるときは、ただ滅びるために、滅びよ。くよくよするな、あれこれ欲しがるな。今の生死はそのまま、仏の命なのだ

生の時はただ全力で生に仕えよ。余計なこと(「死」)を考えて案ずるな。死の時はだた全力で死に仕えよ。なぜなら、生も死もこの宇宙の全機現であり、互いに断絶している。生を喜ぶな。死を厭うな。くよくよするな。欲しがるな。闘うな。一切を願うな。願う心が煩悩なのだ。ただ生きよ、ただ死んでいけ。生死がそのまま涅槃であるのだから、仏のお命(自然のありようそのまま)なのだ。

死ぬときは死に仕えよ=がんとは闘え、死とは闘うな!

「死ぬのが怖い」とはどういうことかとは言っても、やっぱり死ぬのはいやだ、怖いというあなた(私も)。こちらのブログ記事で紹介した前野隆司氏の『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』はいかがでしょう。


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コメント

久美子ママさん。
道元の放つ迫力には圧倒されます。「悟り」が頭をよぎるようでは、まだ悟りにはほど遠いとも言い切りますね。まして「俺は悟った」という人間はまったくその境地に達していないとも。
最近何人かの方の訃報に接して、私も少しナーバスになっています。
未来を考える力があるから、死を意識するのでしょうね。
われわれ凡人には遠い目標ですがが、余計なことを考えず、モモのように生きられたら、すでに『悟り』なのでしょう。

達観してホスピスに来たつもりがなかなか達観できません。今日も、自分の醜態に涙することがありました。しかし、この記事を読んで少し心が落ち着きました。体が動いていた以前の自分と、今の自分とでは、すでに薪の違った断面なのですね。今の不自由な体もそれはそれで新しく燃えている生の形なのだと思えば、今の形でこそできることもあるのでしょう。やはり、キノシタさんのブログは面白い。読み応えがあります。

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