文化・芸術

2009年1月27日 (火)

インターネット落語&アホウ実行中

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            『宇宙に繋がる』
私の細胞の一つひとつが、この宇宙とリズムを取り、エネルギーを交換し、身体の中の悪いものすべてを吸収してくれます。


笑いという心の作用、あるいは脳の働きが、免疫機能を高めてガンの治癒に有効だということはカズンズの「笑いの治癒力」を初めとして多くの書物に書かれている。

かといって、会社や自宅ではなかなか大笑いをするということも難しい。だいたいが笑いたくなる材料が乏しい。最近のテレビのお笑い番組なんかを観ていても、どうして出演者があんなにゲラゲラと笑うことができるのか、不思議に思うだけである。下品な笑いとは何か?を知りたければテレビのお笑い番組を見ればよい。

落語なんかは良さそうだが、新宿の末廣亭にいったのは、学生時分で、今の妻と交際していた頃だから、もう30年以上も行っていないことになるなぁ。一時は落ち込んだ落語人気だが、このところまた復活してきたようです。

おいそれと寄席に足を運べないのなら、社団法人 落語協会のホームページで「インターネット落語会」を観ることができます。1月の下席は、「通信簿」 三遊亭 天どん、 「権助魚」 三遊亭 歌太郎、 「極道のバイト達」 三遊亭 丈二の3人。前座は「天どん」さんですか、師匠は罪な名前を付けるものですね。真打ちの三遊亭 丈二の「極道のバイト達」には、久しぶりに大いに笑わせていただきました。

おかげで、今日は免疫力が5%アップしたかなぁ?

まだ笑い足りないという方は、次のYouTube画像をご覧ください。麻生さんの国会答弁を聞いているだけで笑えますが、これは絶対におすすめですよ! 抱腹絶倒、リンパ球が大量に増えることを請合います。

「兵庫のおじさん 未曾有うの危機!」

 

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2008年4月14日 (月)

静けさに帰る

Pict2608edit これの前のブログに、老子の『道徳経』第16章「帰根」を加島祥造さんの自由訳・自由詩で紹介しましたが、老子のいくつかの章をテーマにして写真展に出したことがあります。

第3章、12章、13章、第20章とこの16章をテーマにして、それぞれに私の撮った写真をつけて、というか、写真に老子の加島訳を付けたのですが・・・。

第16章の「帰根」にはこの写真を当てたのです。バックは画家の田村能里子さんの作品です。車椅子の老人がバックに溶け込んでいくような雰囲気を感じていただければ幸いです。そうです。みんないずれは「元の根」に帰って行くのですから。この写真を見ながら、加島祥造さんの「老子」を詠んでみると、また別の想いが湧いてくるような気がするのです。

田村能里子さんの作品は赤を基調とした色調で、シルクロードに題材をとったものが多いですよね。好きな画家です。

明日は抗癌剤の投与の日。手術後18回の投与の予定ですが、明日はその18回目です。これで抗癌剤は一応終わりです。抗癌剤が効いて、すい臓がんの転移がないことを願いながら、ときどきCTを撮りながらの経過観察ということになります。

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2008年1月15日 (火)

ブリューゲルの絵

5068f 妻と娘の買物に付きあって車で送ったついでに、そごう美術館で開催中の「プラハ国立美術館展=ルーベンスとブリューゲルの時代」を見た。

ブリューゲルの細密画ともいえる作品に興味を持つようになったのは、中野孝次の「ブリューゲルへの旅」(文春文庫)を何年か前に読んでからだと思 う。「どの絵もいくら見ていてもあきなかった。ふしぎにしんとと静謐な世界に誘うものがそこにはあって、静かな声で、ここがお前の帰っていくべき場所だと 語りかけてくるようであった。・・・」と中野孝次が共鳴した「雪中の狩人」はなかったが、ブリューゲル一族の同じ題材での作品があった。

入場券にも印刷されていた「雪中の東方三賢王の礼拝」があった。東方三賢王とは、新訳聖書に出てくるベツレヘムで、イエスの生誕を祝い3人の賢王が お祈りをする話である。この主題の宗教画は腐るほどあるが、ブリューゲルはこの三賢王の礼拝をなぜかベツレヘムでなく、彼の郷土フランドル地方に場面を設 定して描いている。彼の絵は素朴で単純で、ただ北国の粉雪の舞い落ちる冬の日の憂愁を帯びた日常を白い雪と茶褐色で描いているだけである。薪を束ねたり氷 を割ったり、雪道を前かがみで急ぎ足で雪道を急いでいる村人たちに日常生活が画面のほとんどを占めている。画面からはみ出してこぼれんばかりに一軒の藁屋 があり、そこに生まれたばかりのイエスを抱いたマリアがいる。そばに三賢王のうち二人が跪いている。あの人類史上の重大な出来事が、フランドル(英語なら フランダース)の寒村で誰にも気づかずに起こっているのだ。金ぴか衣装も光輪も何一つなく、ただ無関心な村人の日常生活の中の出来事として描かれている。

ブリューゲルにとっては、人間の愚かしさ、貪欲、愚かさ、狡猾さもひっくるめた「日常」こそが描こうとした対象だったのだと思う。彼はそこにこそ人生の価値を見出していたのだろう。

「バベルの塔」は素晴らしいまでの中世都市の俯瞰図の真ん中にデンと異様な物体がある。画家が現場監督でもあったかのように、さまざまな建設道具ま でが精密に描かれているが、建設途中のバベルの塔は、何故か崩壊の運命を予感させる。人間の技術や科学、そうした物に何の価値があるのか? この愚かしい 生を愚直に生きることが最大の生ではないのか。成長と発展を目的に築いてきた近代が、人類に本当の幸福をもたらすはずがないではないかと、ブリューゲルが 言っているように思えるが、どうだろうか。

マネーが徘徊する新自由主義経済も、実はバベルの塔なのかもしれない。

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2007年11月 2日 (金)

彼岸花と道元の生死観

461e7 先月のことだが、伊豆の修善寺で上の写真のような彼岸花を見つけた。新井旅館から桂川沿いの遊歩道を歩き、竹林の小径を歩いてちょうど半分くらい来 ると、和風ギャラリー「しゅぜんじ回廊」がある。このギャラリーの庭にある大樹の股に、風の悪戯で種が飛んできたのだろう、盛りを少し過ぎた彼岸花が咲い ていた。

命の短い彼岸花が、樹齢百年以上かと思われる樹に抱かれていた。彼岸花の命は短くて、それを抱いている大樹の命は長いと感じるのが世間一般の感じ方であろう。私もそうだった。道元はそうではない。

6月に手術で入院したとき、この機会に道元の「正法眼蔵」を読んでみようと石井恭二の「正法眼蔵」五巻本を買ってみたが、入院中は本を開いてもさっぱり頭に残らなかった。ここにきてまた性懲りもなくボツボツ読み進めている。

道元の時間観念・生死観には驚く。いや、なかなかすんなりとは納得できないのだが、いままでの自分の生死観がひっくり返されてしまう。

例えば「現成公案」には、

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。

しるべし、薪は薪の法位に住して、さき ありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごと く、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。

このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、 法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春 の夏となるといはぬなり。

生と死に因果関係などはない。前後の関係もない。生は生で独立であり、死は死で独立である。冬が春になるといわないのと同じで、生が死になるとはいわないのである。

「時間」についてもすごいことを言う。時間とは存在である、というのだ。「有事」の項には、

しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解会(げえ)すべからず。飛去は時の能とのみは学すべからず。時もし飛去に一任せば間隙ありぬべ し。

有時の道を経聞(きょうもん)せざるは、過ぎぬるとのみ学するによりてなり。要をとりていはば、尽界(じんかい)にあらゆる尽有は、つらなりながら時 々(じじ)なり。有時なるによりて吾有時(ごゆうじ)なり。

とある。「時」は行過ぎるものでもやってくるものでもない。松も竹も人間も、己の体内にある「時間」をただごろごろと転がしながら、「今ここに」生きること、それしかないではないか、と私は一応理解したが、こんな壮大な哲学があったものだと。

生も死も、全宇宙の全現成としてそこに働いている姿である。彼岸花には彼岸花の時間があり、生があり死がある。それは彼岸花に備わっている時間であるから、大樹の時間と比較して長いとか短いということは意味のないことだ、と言っているのだ。

生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさき ありのちあり。かるがゆゑに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ、滅もひとときのく らゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。

生というときには、 生よりほかにものなく滅というときは、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらば、 ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとうことなかれ、ねがふことな かれ。

生のときはただ生きよ。全力で生に仕えよ。余計なことは考えるな。死のときは、全力で死に仕えよ。生は生の全機現、死は死の全機現であるからしてそのまま受け入れよ、というのである。死を嫌悪するな。嫌うなと断言するのである。

そして加島祥造は「求めない」の詩文集の冒頭に、

あらゆる生物は求めている。
命全体で求めている。
一茎の草でもね。でも
花を咲かせたあとは静かに
次の変化を待つ。
そんな草花を少しは見習いたいと、
そう思うのです。

と書く。そう、命を、生を全力で生きている。ただそれだけのことなのです。次の変化(死)を待つ。ただ、それが来るのを静かに待つ。私もそんな草花を少しは見習いたい。 

どうやら「正法眼蔵」に心が捕まりそうです。

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2007年10月24日 (水)

ポアンカレ予想

450c9 22日のNHKスペシャル『100年の難問はなぜ解けたのか ~天才数学者 失踪の謎~』を興味深く見た。

数学者を100年間悩まし続けてきた『ポアンカレ予想』を証明したといわれるロシアの数学者繰グリゴリ・ペレリマンの物語。

「ポアンカレ予想」とは、ミレニアム懸賞問題の7つの難問のひとつであり、

「単連結な3次元閉多様体は3次元球面に同相である」

との命題であるが、素人にはさっぱり理解できない。しかし、番組では『長い長いロープをロケットに繋いで宇宙の果てに向かって打上げ、そのロケット が宇宙を一周して帰ってきたとする。帰ってきたロープの両端を引っ張ると、ロープが引っかかりもせずに手繰り寄せることができるのなら、宇宙はおおむね丸 いといえる。』ということらしい。ロープを手繰り寄せることができない場合は、宇宙の形はドーナツ型のようにどこかに穴が開いているのかもしれない。

常識で考えると当たり前のことを予想しているのであるが、これを数学的に証明することが非常に難しかったというのだ。

ペレリマンはこれを証明したとされ、2006年の数学のノーベル賞=フィールズ賞に輝いたのだが、本人は受賞を辞退して数学会からも退いてしまった。

この宇宙の”中”に住んでいる我々が、宇宙を外から観測しなくても(これは不可能)宇宙の形を推測することができるということであり、彼の証明の過程で宇宙がとりうる8つの形が明らかになった。

数学的には証明されたのだが、さて現実の宇宙に本当に適用できるのだろうか? 例えばブラックホール。

ロケットがブラックホールに吸い込まれてしまえば、ロープは帰ってこない。しかし、ブラックホール理論に”ワームホール”というのがある。ブラック ホールの中心が自転していれば、そこにトンネルができるのだ。そのトンネルは、まさに”虫に食われた穴で、その穴の先はホワイトホールへとつながってい る。ブラックホールに吸い込まれたロケットはここから出てくる。つまり、この場合ロープはひっかかり、手繰り寄せることはできなくなることが分かる。ブ ラックホールがあるということは「宇宙はおおむね丸いとはいえない」ということであり、ポアンカレ予想を使うまでもないのではないか?

数学の結論と物理学の結論とは一致はしないということか。

サイモン・シンが書いた「フェルマーの最終定理」も同じく数学の難問に挑戦した数学者の物語。こちらもわくわくする読み物だった。

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2007年8月 5日 (日)

ブレッソンの写真展-時は命なり

39397 北の丸公園にある東京国立近代美術館で開催中の「アンリ・カルティエ・ブレッソン=知られざる全貌」を見に行った。 まだとても駅の階段を上下して電車で行くほどの元気はないが、車なら何とかいけそうだと感じたので、車で出かけた。

しかし北の丸公園の駐車場が満杯。1時間半も待ってやっと駐車場に入れることができた。以前ならこんなには待たないでさっさと諦めただろうと思う。 公園の木々の上で短い命を騒がしく鳴き続けるセミを聴きながら、あるかなしかの風に揺れる木の葉の緑を透かした陽の鮮やかさに眼を楽しませながらゆっくり と待っていた。自分の中で以前とは時間感覚が違ってきたことを思う。

『時は金なり』で、いつも次の予定のために今を急いでいたのがこれまでの私だった。しかし、『時は命なり』である。今の時間をただ楽しまないで生きているといえるのか。

会場は若い人の多いのにびっくりした。モノクロの銀塩写真にこのようにたくさんの若者が魅了されているのだろうか?カラー写真で育った世代には返ってモノクロ写真が新鮮に写るのだろうか。

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